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まよ日が記かく

1月17日「挫折は必要ない」と思える観客でありたい

成功者の体験談、良い成果のプロセスを聞くと、しばしその途中で「挫折」についてのエピソードが顔を出す。
それは(多少の脚色はあるかもしれないけど)事実であり、その挫折が当事者の中で大きな思い出になっていることは間違いないだろう。
ただ、その挫折は本当に必要なのだろうか。
成果を出した当事者ではなく、それを取り巻く観客の視点でしばし考えてみてほしい。

友人があるコラムの感想に
「この挫折なければ、もっと良い成功になってたんじゃない?」
と寄せていたのをみて、あらためて感じた。
正直、挫折はそれほど必要ない。

一般に「挫折」と呼ばれる停滞や衝突がなければ、その先にはまだ多くの時間的余白や追求できる可能性があったかもしれないからだ。

頑張った人の体験を、当事者意識をもって(自分を主人公と重ねて)考えることは大切だけれど、それが自然と、過程の「挫折」も大切だ、苦しいことが起こるなんて当たり前、と思う空気感を作っていないだろうか。

振り返る中で当事者自身が「あの挫折があって今がある」と感じることは大いに結構だ。
自分にもあれがなければ今はないというエピソードはいくつか思い当たる。
ただ、それは、当事者が振り返える中での思い出としての価値で十分だ。

僕が体験を見たり聞いたりする側の立場、つまり観客の側で話を聞くときは、「この挫折の原因を、排除する役目を自分は担えないだろうか?」という視点で聞くように心がけている。

当事者が挫折の要因を早期発見したり、直接解消するよりも、第三者が何かしら手を貸した方がシンプルに解決することが多く、それは現実的に自分の身の回りで起こることに、大きく活かせると感じているから。

様々な事例を自分ごととして聞くということは、けして、物語の主人公に自分を置き換えて聞くことではない。
自分なら、どんな形で手助けできたのだろう、自分ならこんな加勢ができるのに、といった成果を構成するひとつの役割を自分なりに想像することである。

だからこそ僕は、ドキュメンタリーや講話を聞くときなどは「挫折を必要ない」と思える観客でありたい。
挫折のドラマチック性を賞賛するのではなく、その原因を見極める目を持ち、何も挫折なくなく成功したのであればそれを喝采したい。

活動の中心でも、それを支える役割でもなく、周囲の環境を整える役割が必要だと思うからこそ、僕の会社まよひが企画は「地域振興サポート会社」と掲げている。
なんだか大きな挫折もなく成果が出たよと言ってもらえたら、こんなに嬉しいことはないのだ。

 

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